月はまだ天のなかに居る。
流れんとして流るる景色も見えぬ。
地に落つる光は、冴ゆる暇なきを、重たき湿気に封じ込められて、
限りなき大夢を半空に曳く。
乏しい星は雲を潜って向側へ抜けそうに見える。
綿のなかに砲弾を打ち込んだのが辛うじて輝やく様だ。
静かに重い宵である。
小野さんはこのなかを考えながら歩いて行く。
今夜は半鐘も鳴るまい。
夏目漱石「虞美人草」より抜粋(新潮文庫 P. 241)
お話の中に、教えがあるものや、読んでいて心が洗われる作品が好きです。
またはアート的な要素が詰まっているもの。
たとえ題材が好きな感じでなくとも、
文体や言葉が美しいとぎゅっと胸を締め付けられそうになる。
そんな感じのものがいいな。
これは漱石が朝日新聞に入社してはじめて書いた長編で、
当時すごく話題になったそう。
エゴイスティックなヒロイン含め、周りに登場する人物像も
私の中ではあまり魅力的ではなくて
どちらかというとお話の内容は好きではないのですが、
本編に折り重ねられる言葉が素敵で、
何度も読み返したくなります。
(ところで虞美人草とはまたまたポピーのこと)
先日母から届いた小包の中に私の好きなお香屋さんのお香が入っていました。
さっぱりしているのでお客様が来るときに焚いてもいいなと思いました。
友人に頂いた陶器の小物入れを香炉にして。
お懐紙も同じ友人の歌舞伎座のお土産で
よく見えないけれど歌舞伎面の絵が入っていてお茶目♪
「虞美人草」にはいくつか気に入った文節があるのですが、
今日はもうひとつだけ載せることにします。
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外には白磁の香炉がある。
線香の袋が蒼ざめた赤い色を机の角に出している。
灰の中に立てた五六本は、一点の紅から烟となって消えて行く。
香は仏に似ている。
色は流るる藍である。
根元から濃く立ち騰るうちに右に揺き左へ揺く。
揺く度に幅が広くなる。
幅が広くなるうちに色が薄くなる。
薄くなる帯のなかに濃い筋がゆるやかに流れて、
仕舞には広い幅も、帯も、濃い筋も行方知れずになる。
時に燃え尽した灰がぱたりと、棒のまま倒れる。
夏目漱石「虞美人草」より抜粋(新潮文庫 P. 352)
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あるシーンのたったヒトコマに出てくるお線香の様子を
10節に渡って彼が描く文章。
実際にお線香や棒状のお香が燃えるのを観察していると、
漱石が言った通りの様なのです。
香の世界が好きなので、こういった描写を見つけると嬉しくなりますが、
それ以上に彼の詩のような表現が素敵すぎます。
鬼頭天薫堂「鎌倉四季の香り 星月夜」