Saturday, September 11, 2010

Ango Sakaguchi & Junbungaku

1893年の文学界の一冊に掲載された
北村透谷氏の評論「人生に相渉るとは何の謂ぞ」によると、
純文学とは
「学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品」なのだといいます。
現代では純文学と大衆小説は、
ビジネスとして意図的に融合されているけれど、
北村氏の「美的形成に重点を置く」という意味では、
私の好きな村上春樹氏や川上弘美さんの作品も、堂々たる純文学と言えるのでしょう。

でも、純文学と聞いて一番最初に頭に浮かんだのは、
中学校の教科書に載っていた梶谷健次郎の「檸檬」でした。
主人公によってわざと本屋に置きざりにされた檸檬が、
もの凄くはかないものに思えて、
でも作者のウィットには素直に微笑んでしまって。
読んでしばらくは、レモンの黄色が脳裏にヴィヴィッドに映っていました。


もちろん考えてみれば、梶谷健次郎だけでなく、
泉鏡花、森鴎外、徳富蘆花など、思い浮かぶ作家はたくさんいます。
とくに昔の作家たち。
それは80年代生まれの私にとって、
純文学という言葉が何となく重い響きであるからかもしれません。
昔の作品には好きなものがたくさんあって、
とりわけ昭和初期のものに興味があります。
昔父が入院中に読んでいた宮沢賢治をはじめ、堀辰雄や太宰治、
そしてもうひとり、その時代を代表する坂口安吾氏もすごく好きです。

坂口安吾は、とても変わっている夢遊病のような人だなあと思います。
説明するのが難しいけれど、私の中ではそんなイメージの作家なのですが、
最近、私の持つイメージを簡潔に説明している文章を見つけました。

『ある時は人間の魂の底まで揺るがすようなすさまじい感動を、
ある時は澄みきった切ない悲しみに似た憧れを与えてくれるが、
多くの場合、小説作品の構成をのり超え、小説作品をこわし、はみ出してしまうのだ。
つまり坂口安吾のめざし意図する文学はあまりにも巨大でほとんど不可能であり、
そのため彼の精神の運動の振幅は大きく烈しく、在来の小説、
特にちんまりとした日本の近代小説の枠内にはとても収まりきらないのだ。』

この抜粋は、私の持っている単行本のひとつに載っていた解説で、
坂口安吾の魅力について多摩美術大学名誉教授である奥野健男さんが綴ったものです。
それには私には上手く言い表せないことが、ストレートに書かれていて驚きました。

作品の中には不完全燃焼な形で終わっているものがあるからか、
坂口安吾のことを未熟な作家、不完全な作家と呼ぶ人はたくさんいますが、
未熟なのではなくて、彼の作品は日々進歩し変動していたということ。
奥野先生の仰る通り、坂口安吾の求める文学は、
ふつうの人間には理解できないほどダイバースなものだったのだろうな。
だから私は彼を「進化系の作家」と表現しようかな。

   自身が体験した第二次世界大戦中の日本を題材にした作品も多く、
「白痴」や「堕落論」がたぶん一番有名ですが、
私は「風と光と二十の私と」がとても好きです。
主人公の「先生」である「私」の気持ちが心にストンと入ってきて、
何度も頷いてしまいます。
そして、ああ、これも美しい純文学だなあと思います。