先々月の13日。
読売新聞の編集手帳には、
75歳で亡くなった井上ひさしさんの
「吉里吉里人きりきりじん」のことが書かれていました。
実は私にはこの「吉里吉里人」にちょっとした思い出があるのです。
本を読むことが好きな両親だったので、
私も暇があれば読書をしているような子どもでした。
小学校の頃のお小遣いは1500円、中学に入ると3000円でしたが、
私はそのほとんどを本に費やしていました。
また土曜日が休みの父がたまに帰宅路に迎えに来ることがあって、
そんなときは必ず本屋に立ち寄って、本か漫画を買ってもらいました。
いつでもどこでも本が欲しいというような子だった。
そんな私の本への出費に苦労していたのでしょうか、
ある日父が分厚い文藝書を持って来て
「新しい本はこれを読み終わったら買ってあげるよ」と言いました。
それが井上ひさしの「吉里吉里人」。
今思うと、小学校6年生の子供にそんな読み物は酷です。
最初の数ページは頑張って捲るものの、漢字も多くて、まず話の意味も分からない。
あっという間に飽きてしまった私は、
それからすぐまた新しい本をねだることになったのですが、
そのときに「吉里吉里人はもう読んだの?」と聞く父に
背中を向けて「読んだもん」と言った私。
もちろん私が読んでいないことは父にも分かっていたし、
その日の父の顔には何とも言えない満足げな笑みが浮かんでいたことを、
今でもよく覚えています。
13日の編集手帳では、
ウィットに富んだ井上氏の永眠への寂しさが綴られていました。
そして読者サービスに力を入れていたという井上氏が
読者に与えた「笑い」に含まれた教えを、
我々はどう受け取るべきなのかということも暗に意していました。
初めて彼の本を手にしてから13年。
井上ひさしは私が最も敬遠し続けた作家です。
でももしかしたら私は彼を敬遠していたわけではなく、
いつか会うべき日の為に大切に本棚にしまっていたのかもしれないな。
今度実家に帰ったら、
12歳だった私に勝負を挑む気持ちで「吉里吉里人」を読んでみようと思っています。
そして少しでも井上氏の哲学というものを探求できたら、
という野望も抱いているのです。